頭の中身をprintf

おっさんITエンジニアの頭の中身を記述するだけのBlog。なお、基本コンセプトは「理系男子」。目標としているのはHellow World!以上の文字列をはてなブログに出力すること。最近、妄想ブログになりつつあるのが悩みといえば悩み。

おっさん向けの教科書

イタズラしたかったのです


昨年の話ですが、ちょいと自己研鑽並びに技術検証という名目、つまりエンジニアとしての好奇心を満たすためにイタズラでをスマホアプリを作ってみたのですが(当然ですがアプリは非公開)まあある程度慣れなきゃならない面はあるものの、それなりに動くものを簡単に作ることができてしまう。作れたことに価値があるんじゃなくて、作ったものがどれだけ価値を提供しているかが重視されるということを実感。もうプロダクトを作れることが価値じゃないんだよなぁ。

でもって、イタズラしようとココロに決めたのでもう少しイタズラしたい。まあ時間も無いから凝ったアプリは作れないし、クロスプラットフォーム開発(ひとつ作ればAndroidでもiPhoneでも動かせる。たぶん。)の検証という言い訳にしたいから基本的な動きの検証だけでまずは良いかと。

そうだ先日子供が描いた家族の絵を写真に撮ってあった。スマホアプリの中に家族の名前のボタンをそれぞれ作って、ボタンを押したら絵に描かれた家族の顔が表示されるようにでもしてみよう。あと、ただ表示されるだけじゃ面白くないから「ひみつモード」スイッチを作って家族の中のあの人のボタンを押したらイラストの鬼(以下強烈に自粛)

まあ慣れてしまえばカンタン。程なくしてイタズラアプリは完成。いや公開どころかとても人様には見せられない。ちなみに機材の問題でiPhoneでの検証は未実施。既に本来の目的から逸脱しているけど機材の問題じゃあしょうがない、ことにしよう。

家に帰り家族内で公開。「ひみつモード」スイッチをONにして家族全員でひと笑い。子供達はもう2〜3回遊んでくれるかな?と思ったけど下の子がもう一度遊んだだけでスマホは放置される。うーん、イタズラアプリは家族にすらそれほど価値を提供していない模様。自己研鑽か足りないというか、真剣に考えていないからそりゃそうか。これで大注目されるなら世の中のエンジニアはもっと優遇されてしかるべきだ。
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数日過ぎて下の子から言われる。アプリの中に表示される自分の顔のイラストを某超有名アニメ、ポケット怪物に登場する超お気に入りノーマルタイプキャラクターにはできないの?と純粋な憧れを全面に押し出しながら問われる。

おおお、関心を持ってくれたのだから親としてチカラいっぱい受け止めて受け戻してややらなければならない。ただ、言われた通りアプリを修正してポケット怪物のイラストなんかに入れ替えたりなんかはしない。残酷かもしれないが世の中、世界のルールの一端を知るためにはとても良い機会ではないか。イタズラでアプリを作った上にBlogに実益の無い日本語を垂れ流しているお前が偉そうに親の顔して威張るな、というご指摘は今回際棚上げ。

世の中のお約束


ポケット怪物のイラストに入れ替えるのはこのご時世カンタン。おそらくゴニョゴニョしてスマホアプリのビルドをしてしまえばそれまで。下手したらビルドしている時間の方が長いかもしれない。ただ世の中のお約束としてそれはやってはいけない。本心ではないのに大義名分を大声で言うなと他の大人からお叱りを受けるかもしれないけどそれも今回棚上げ。子供達よよく聞け、ざっくり言うとこういうことだ。

  • 世界には「著作権」という法律(おやくそく)というものがある。ポケット怪物のキャラクターを一生懸命考えてテレビアニメや映画やキャラクター付き歯ブラシを売ってゴハンを食べている人がいる。勝手にポケット怪物のキャラクターを使ってはその人たちがゴハンを食べれなくなる、かもしれない。

  • とはいえどうしてもポケット怪物のキャラクターを使いたかったら、キャラクター考えた人にお許しを得なければならない。そしてお許しを得る代わりにものすごくたくさんお金を払わなければならない。たぶん。

  • ところがどっこい、某国ではあんまりそのへん気にしていないみたい。先日も某超有名な赤と緑のオーバーオールを着た兄弟が奮闘する横スクロールゲームが某国の公的機関で堂々とパクられたらしい。世界にはそんな国もある、ということは覚えておいたほうが良さそうだ。

なんて大きい顔をして語ったところ「じゃあキャラクターなんて何も考えない方がいいじゃん」なんて言い始める。いやいやそう言うな。某キュートな最近コラボしまくり白猫さんが代表的なあの会社で、年中ほっぺたが垂れ下がった某パンダキャラクターがいる。聞くところによると社内でさんざん新キャラを考えてはダメ出しをされてへこたれて、もうイヤになっちゃった自分の姿をパンダにしたら世の中に爆発的に受け入れられたらしい。だから最初から止めておいたほうがいいなんて考えるもんじゃない。世の中なにがウケるのかわからないのだから。

オリジナルキャラ


なーんて偉そうに語ったさらに数日後、帰宅すると下の子に呼ばれて3枚の紙を見せられる。紙には色鉛筆で描いた見たことがないキャラクターとミラとラミとキラの文字。なるほどどうやらこれはオリジナルキャラクターを考えたらしい。親から子供への教育としては正しい方向へ導くことができたのではないか?

よくやった。その気持ちが大切なのだ。考えるだけでなく実際に手を動かし世の中にふたつと無いオリジナルキャラを生み出した気持ちが素晴らしい。部分的になんとなく例のポケット怪物に似ているような気もしなくはないのだけれど、ミラととラミとキラはCマークが付くお前だけのオリジナルキャラだ。今のうちに商標登録だけでもしておこうか?
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ポケット怪物は偉大だ。子供達の心を動かし勇気を与え、お小遣いからポケット怪物カード欲しさにコンビニで毎週のように数百円を導き出し、チョコレートの箱や菓子パンの中にキラキラ光るキャラクターシールを忍ばせるだけでスーパーに入荷したと思ったらいつの間にか無くなっている。そして不条理にも感じる著作権という大人の都合が世の中を支配していたとしても、子供にオリジナルキャラを作らせるほど憧れを抱かせるカリスマなのだ。ポケット怪物がオープンソース化されたら世界を征服できるかもしれない。いや既に地球は征服したも同然と思われるから、月や火星くらいも征服できそうだ。

影響を受けたもの


これは勝手な思い込みなのだけど(いやそもそもこのBlogは思い込みのカタマリだけど)我々多くのおっさんが子供のころ影響を受けてしまったのは赤と青と白の大型ロボットが宇宙や地球で使命を果たすために戦うアニメのファーストシリーズである。ただ一体しか製造されなかったあのロボットにニュータイプと呼ばれる能力を備えた少年(青年?)が乗り込み、百戦錬磨の戦いを挑むあのアニメだ。バックグラウンドに漂う悲壮感には子供ながらに大きな影響を受けたような気がする。その昔生き別れになってしまい、立場上は敵味方に別れてしまった兄妹の再開と、そしてまたすぐに別れてしまったシーンも涙を誘うではないか。

最終回も涙なしには観ることができなかった。敵の要塞に忍び込み、頭部と左腕を失いその言葉のごとく身を削りながらライバルとの一騎打ちに挑み、天頂に向かい撃ち放たれたビームライフルの一撃でライバルを倒すのである。ここでニュータイプの主人公は息絶えてしまうのかと思いきや満身創痍の姿でズタボロになったロボットからやっとの思いで脱出する。
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どこか最近の(特に自分が身を置いているIT業界で多い)サラリーマンを思わせる姿ではないか?自暴自棄の思いでプロジェクトと会社に全身全霊を捧げ、確かに最終的に全体としての目的を達成はするがイチ個人としては目も当てられない姿になってしまう。どこかズタボロになった赤と青と白のロボットと深夜のオフィスのサラリーマンは姿が重なりはしないか?そして最終回では天頂ではなくきっとプロマネに向かって痛恨のヒトコトを打ち放ち、やっとの思いで暗黒のプロジェクトから脱出するのである。まずい涙無しにその姿を見ることなどできるはずがない。いやホントに。

最近そんな姿は求められない、いや中にはそんな姿のほうが有り難く感じる古い人がいるかもしれないけど、時はポケット怪物の時代に変わったのだ。一人と一匹とが心を一体にし、全員でゼロからの成長をすることが求められる。まず第一にモンスターボールを投げつけても怪物が納得してくれないと仲間になろうともしやしない。「そもそも論として、あなたをトレーナーとして共に戦う必要があるんでしたっけ?」から始まっている。肩書やそれとは違う派閥構成とか一切関係ない。一対一の信頼関係が築けるかどうかが問題であって、周囲の大義名分は重要ではない。心が通じ合わなければZワザだって繰り出すこともできるワケがないじゃないか。

戦いが始まったとして悲壮感漂う絶対的なバックグラウンドがあるから戦わざるを得ないわけではない。自らのスキルアップと成長を求めて戦うのだ。スキルアップを重ね大きく成長をするたびに2回くらい元の姿が分からないほどに姿を変える。それは肩書なんていう見栄やプライドが詰まったものではなくて、出世魚みたいに本質的に中身が変わるから名前も姿も変わるのだ。そしてだ、戦いに勝っても決して息の根を止めたりはしない。戦いに敗れ戦闘不能になったとしてもジョーイさんが待っているポケット怪物センターに運んでいけば敵だろうと味方だろうと絶対に亡くなることはない。いやポケット怪物が亡くなってはいけない。そんなことまでして戦う必要はないのだ。ポケット怪物のアニメが放映されるようになった20年前くらいから、時代はそう変わりつつあったのだ。その気配に気づけなかった自分も含め、おっさん達は強烈に反省すべきだろう。

どちらが良いとか悪いとかはおそらく結論が出ない。ただ時代はポケット怪物のような世界に流れているような気がする。だからおっさんはポケット怪物を学ぶ必要があるだろう。

ポケット怪物に学ぶ


ポケット怪物から学ぶことは多い。おっさんがイイ姿を見せてやらなければと思ったら、カイリキーのように優しく力強い姿を見せなければならないだろう。若者がコイキングのように幼く弱々しい姿であったとしても油断していたらやがてギャラドスのように力強い姿に進化するかもしれない。職場にはサーナイトのようにサイコパワーを使うお局様もいるだろうし、マーシャドーのように常に影に潜んでいる古株もいるだろう。シェイミのように姿は可愛らしい新人でも誰もできないテレパシーなんていう特殊能力を使ったり、メタモンみたいにコロコロと言うことや姿を変えたりする調子の良い奴だっているじゃないか。そしてアルセウスの前では誰もが皆無力にならざるを得ないのだ。
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どれも皆最初は可愛らしい姿をしているからといって油断してはならない。実はポケット怪物には昨今の若者の理想と本音と目指したい姿が込められている。おっさん達は若い人たちの本心を知るためにリファレンスとして、毎週ポケット怪物をテレビで観るべきである。いや、可能ならば毎年一度必ず上映される劇場版を見に行くべきである。その純粋な想いがダイナミックに描かれていることに心揺さぶられ、涙を流すこと必然なのだ。

だから若者の本心を理解するためにおっさん向けの教科書だと思って劇場版を観に行こうじゃないか。若者を迎えたチームでコミュニケーションができないと言い放ちサジを投げたり、チームビルディングがそもそもできなくなっているとか理屈を並べたりするくらいなら、劇場版ポケット怪物を見に行って個性豊かな若者たちがバトルしていると思いながら観れば若者の本心が理解できるだろう。そして若者の感性に触れ、目頭を熱くできればおっさんも若者の仲間入りだ。若者達と共に涙しようではないか。

ただし、映画館で泣いているのはナイショなのだ。そこはおっさんの「恥じらい」ということで許してくれないだろうか?いい歳した普通のおっさんがポロポロと泣く姿など誰も見たくはない。満員通勤の雑踏に飲まれ、トラブっても職場では冷静を装い、お昼には限定20食のランチが売り切れ、おっさんもなかなかいろいろとタイヘンなのだから、どうかそこはひとつ許してほしいのだ。

こう考えると映画館には、オッサンではなくメッソンが何匹も隠れて泣いているに違いない。泣き虫ではあるけれど、最新作ソード&シールドの御三家キャラだと思うとオッサンのメッソンもまあ悪くはないではないか。

オッサンのメッソンは映画館に隠れている。そして見つけたら捕まえようとしてモンスターボールを投げつけようなどとせず、そっとしておいてあげよう。スーパーボールやハイパーボールなんて持っていても絶対に投げつけてはいけない。だってその時だけオッサンのメッソンは、少年の心に戻ることがてきているのだから。